日記・コラム・つぶやき

2012年8月 2日 (木)

『詩と思想』にエッセイ「火星移民第一号としての覚悟と実践」が掲載されました

41bw9kcjhl_sl500_aa300_ 2012年8月1日に発売された『詩と思想』2012年8月号(土曜美術社出版販売)のpp.52-54に、私が書いたエッセイが掲載されました。

 この号は「特集 脱原発の詩と思想」と銘打たれ、佐川亜紀氏による、南相馬市の詩人若松丈太郎氏や「ヒロシマ・ナガサキを考える」発行人の石川逸子氏等へのインタビューが、巻頭に24頁に渡って掲載されています。これだけでも大変読み応えがあります。

 『詩と思想』の定期購読をはじめて4年目、更に私の所在地が福島県須賀川市になっているからでしょう、震災後まもなくお見舞の手紙を代表取締役高木祐子様よりいただきました。震災後に同誌に掲載された私の詩は2011年7月号2012年6月号の2篇です。

 今回のエッセイ「火星移民第一号としての覚悟と実践」は、5月締切で依頼を受け、遅れずに渡しておりましたが、校正時になって、まだ多少文章を追加できると連絡がありましたので、7月はじめ時点での須賀川市の最新情報を書き足しました。

 PDFファイルにしましたので、ご興味ある方は下記URLからダウンロードして読んでください。A4サイズ3頁です。
http://tatsutoshi.my.coocan.jp/20120727.pdf


 なお、このエッセイは下記9編のブログ記事を下書きにして書いたものです。
 2011年 3月29日 (火) 罹災から復旧へ
 2011年 4月 4日 (月) 復旧宣言
 2011年 6月21日 (火) 罹災から3ヶ月
 2011年 6月30日 (木) 福島第一原発事故後の放射能とどう付き合うか
 2011年 9月12日 (月) 罹災から半年経過
 2011年10月13日 (木) 放射能に台風ときたもんだ
 2012年 2月16日 (木) 罹災から11ヶ月の対放射能戦の実際
 2012年 2月20日 (月) 対放射能戦、ちょっといい話
 2012年 3月12日 (月) 震災から1年経ちました

Hi 上記のブログ記事、震災後1年間の記録をリンク先の資料もすべて盛り込んで、「被災者手記」と題してまとめました。よろしかったらダウンロードしてご覧ください。
http://tatsutoshi.my.coocan.jp/20110311-20120311.pdf (1.50MB A4縦32頁)

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2012年3月12日 (月)

震災から1年経ちました

 震災から1年経ちました。

 我が須賀川市においては、おそらく震災で壊れた建物・道路等の復旧は、少なくとも今後いつの段階で着手するかが決まったという意味において、だいたいの目処がたったように感じています。

 本来なら力強く復興を叫びたいところですが、放射能がある限りにおいて、そう簡単にはいかないのが寂しいですね。その寂しさを胸に抱いて、こどもたちのためにあえて笑ってみせるのが大人というものだと私は思います。

 市の英断によって、除染活動が具体化しはじめたのは、大変喜ばしいと思います。除染しても、はでなホットスポット以外にはそう簡単に目に見えるようには数値が下がらないと予想しますが、それでもくじけず(!)、えんえんと続けることにこそ、意味があります。すぐに効果が出ないことなど「想定内」であると腹をくくって、こつこつと、繰り返し続けていきましょう。

 また、こちらも市の英断によって、学校給食の安全化がはかられました。これだけでもパワーのいる仕事ですけれど、よく考えればこの仕事は業者が行うものであって、先生方や親御さんが汗を流すわけではありません。こうした直接こどもたちを保護教育する立場にいる人々が今後とりくまなければいけないのは、放射線の影響に関する勉強に加え、学校給食以外の飲食物からの内部被曝量をどのように下げるかという具体的な行動です。

 市は(社)須賀川医師会と共催で3月28日に佐藤和子氏による講演会「内部被曝と食生活」を文化センター大ホールで開催するそうですが、おそらく佐藤氏はかなり具体的なお話をなさるでしょう。もちろん私も聞きに行きますが、重要なのは、聞いた人がその具体的な話を実践すること、また、聞きに来られなかった方にもそのエッセンスを伝授することです。ただ話を聞くのではなく、市としてそこで話されたことを市民に実行してもらえるよう、学校等でもその話を繰り返したり、料理教室を開いたりして、続けていく手助けをすべきです。

 その延長で、今後の市に望む一番大事な対策は、「市内で販売される飲食物全商品の店頭でのベクレル表示」に他なりません。機材の有無を云々するべきときではありません。いくらお金を投じようとも、この課題に対して取り組まなければ、近未来(こどもが病気になった時点)において必ず悔やむときが来ます!

 こういうことを考え続けていたら、絶対に疲れますので(笑)、私も何とかその疲労から解放されたいといろいろ探し、実践してきましたが、今のところ、バランスセラピーUniv.の提唱するホメオストレッチが、「いの一番に有効」であると思っています(その後で、各種各人の好みに従って施術を受けるとよく効きます)。家内はこの施術資格をとるべくすでに丸一年勉強を続けていますが、人様に施せるようになるにはまだ半年以上必要とのこと。

 弊社では家内の先生方の協力を得て、実験的に12月末と2月上旬にボランティアで施術をお願いしましたが、何せ120人も社員がいるので、一人ずつきちんと1時間行おうとしたら膨大な時間がかかります。現在、校長と方法を模索していますが、おそらく年度かわって4月からは毎週二人、施術のできる先生をお招きして、全社員に繰り返し施していくことになるでしょう。

Mezameno


 このプリントは、一人でできるリラクセーションのやり方を、私が知る限り(笑)最もわかりやすく図解したものです。もちろん半年以上前から私も行っております。だまされたと思って挑戦してみてください。かなり身体が若返ります(笑)。

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2012年2月20日 (月)

対放射能戦、ちょっといい話

 2月15日、市議会議員に、2月10日の酒席の約束を果たすべく、市長宅はじめ多くの方々に送り続けてきた放射能関係の資料や手紙のダイジェスト版を作って、お渡ししました。

 2月17日の昼休み、前触れもなくその市議が弊社を訪れ、「資料、全部読みました。社長の思いにどこまで応えられるかわかりませんが、市議会としてはこのようなことを今後進めていきます」と、自らワープロで打った「今後市が取り組むべき事項の考え方」と題した紙を渡してくださいました!

 はや~、ありがたや。私は嬉しかったけれど、更に追い打ちをかけて(笑)、そこに書いてあることがらに、あと一つ、市内で販売する食物のすべてに、店頭におけるベクレル表示を義務づけるべきである、と加えて欲しいと返したのでした。

 失礼だったかもしれませんが(←そうだろうなあ)、子どもの内部被曝を避けるためには、食物を「基準値以内」で十把一絡げにまとめて平均化してはいけないし、むしろ、どの畑はNDだから問題はなく(今後手助けする必要はない)、どの畑ではこのくらい検出されたから市としてどのように協力すればいいかがはっきりわかるのだ、と続けて話しました。

 市議、難しい顔をなさってましたが、日本のすべての行政単位の中で最もきつい給食の基準値を発表した須賀川市なのですから、食物の店頭におけるベクレル表示も先陣を切って行って貰いたいと思います。

 でも、本来の市議会の役割は、市長や市政、そしてお金の使い道についてのチェッカーですから、その市議が、対放射能戦に関しては、市長と一緒に歩んでくださることがはっきり見えたので、ほっとしました。

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2012年2月16日 (木)

罹災から11ヶ月の対放射能戦の実際

 疎開も移住も、本当に難しいことが、この地に居るとよくわかります。だから、しゃかりきになって勉強して、その成果を社員にも市中にもばらまいて。私が旗を振り続けていくことで、社員はPTA等で放射能を話題にしても、後ろ盾として社長がいるから、気後れすることなく発言できるでしょう。

 取引先の社長さんたちに放射能の講義をしました。彼らは社員に私が作った資料をコピー。その社員さんから偶然聞いた話ですが、彼はそれをこんどは自分が住んでいる団地で配付したそうです。

 市が動かなくても、市民の側からは動きが始まる。その何かの支えになれたらと思っていますが、弊社社員の住むある地域では除染についての住民集会が開かれたそうです。ところが、除染してもそのときに出た廃棄物の始末の方法がわからないということで暗礁にのりあげたとか。今は、誰も何もしていないのですから、除染しようとしまいと下水にはばんばん放射能に汚された水が流れ続けています。いずれ、下水処理場を含めて対策は必ずとられます。でも、今はそうではない。だから、同じことだから、遠慮するこたあない、まず自分たちの子どもを守るために、がんがんやるべし、私がその集会にでていたらそう言ってゴーをかけるよ、ってアドバイスしました。

 弊社で高圧洗浄機を用いて定期的に除染を行っているメンバーは、地元消防団の団員です。市は、いずれ、市民に除染を手伝ってくれと言い出すはず。そのとき、その地域の消防団は真っ先に出動を要請されるでしょう。弊社社員は、すでに除染を行っているのですから、地元でもその知見を活かして、貢献できるでしょう。

 10月以降は、社内の除染と、市長をはじめ市の有力者達に宛てて、ネットからの映像や映画をDVDに落としたものを中心に、本、ネットや雑誌のプリントアウト、社内除染の報告等を、十数回にわたって送り続けるのの、2通りを実行しています。

 社内の除染は、6月と9月に土や泥や草木をドラム缶に詰めて穴を掘って埋めてコンクリートを流し込んだ後、建物と舗装された場所に対して高圧洗浄機2台を使用。具体的には24人の消防団員を6チームに分け、週に2回2時間ずつ、1回に2チームで、13のブロックに分けた箇所を順繰りに攻めています。

 作業のたびに雨具・ゴーグル・手袋・マスク・長靴を新調しますのでそれなりに経費もかさみましたが、地域の空間線量が0.9マイクロシーベルト/毎時なところ、社内敷地では0.3に落とすことができています。今後も継続します。

 また、上記物理的除染に加え、化学的除染にも挑戦し始めました。薬剤の選定にあたってはおよそ40はくだらないそれっぽいやつ(笑)を検討し、昔から使われていて人畜無害が証明されていて、かつ値段が高くないものを基準に選択し、二つに絞りました。

 事務所等、屋内の空間線量を少しでも下げるために、ファインミセルを使います。これはもともと消臭剤として売られていたもので、特徴としては空間の浮遊ゴミを捕まえて地面に落とします。セシウムは細かい塵や埃に付着しているので、この手が有効です。ただし、床掃除が必須です(笑)。

 使用方法は加湿器の水タンクに50倍に希釈して投入、それだけ。各部署で加湿器を使っていないところに計9台買い足して、都合20台近くが稼働中です。

 舗装されていない敷地内の場所(砂利引きの駐車場、建物まわりの土・雑草のある部分、樹木、敷地外側の土手、隣接地の山林等、かなりあります)には、グリーンAを使用。これは、農薬が問題になったゴルフ場等で土壌改良のために使用されてきた実績が30年以上ある、光合成細菌です。

Photo 空間には使用できませんが、ある程度の水分のある土壌では微生物が働いて、(今の科学ではきちんと説明できないようですが)放射性物質を取り込んでその能力を消化して無力化します(笑)。効果は絶大(らしい)で、線量が90%近く下がるはず。劣化ウラン弾の処理に使えるとの広島国際学院大学大学院佐々木健教授の論文が発表されています。

 撒布用に充電式10リットルタンクの農薬用撒布器を4台購入。消防団とは別に11人を選出し2チームに分け、週に1回1時間ずつ、一度に4名が、1時間で一人30リットル×4台を、細かくブロック分けした敷地内に撒いていきます。こちらは実験が終了、年明けから本格的に開始します。

 他、内部被曝に関しては、市長宅に情報を流し続けたのが効いたのか(笑)、12月21日に、市長が記者会見を行い、4項目の対放射能対策(須賀川市震災復興計画について、原子力災害対策直轄室の設置について、学校給食用食材の放射性物質測定と基準値設定について、米の放射性物質の緊急調査について)を発表しました。特に学校給食に関する基準と対策は全国一厳しいものになりました。万歳。

 正月に編成される市長直轄の原子力災害対策直轄室の設置については、果たしてどのくらいの覚悟と知識をもった人がその任にあたるのかが心配で、市役所の知人を通して、年明け早々、その方々5人まとめて面会をお願いしました。

 国や県、あるいは民主党や自民党や各省庁の言う方策や基準値から思いきり逸脱した「こどもたちのための」行動になるので、なまじっかな覚悟では担当者はノイローゼになるでしょうから、味方は市内にいるぞ、と立候補する決意もさることながら、環境省や文部科学省が発表した公的な除染の知識くらいしか持っていないようなら、勉強も手伝おうかと思っています。もちろん、そういう申し出をしたことは、市長宅にも手紙を書いてしらせました(笑)。

 内部被曝した身体を休めるためには、体内の放射性物質の排出と、免疫力の強化が必須です。プチ避難を行うと、累積で計算する放射線量が更に足されるのを少しでも防ぎますし、新たに入ってこないことで排出が進みます。一度薄い放射線を取り込んでいて、突然入ってこない期間があると、人によってはホルミシス効果が働いて、放射性物質に対する免疫ができる場合もあります。

 免疫力を高めるには、完全なリラックスが一番。脳幹を休ませることによってそれを実現するバランスセラピーという療法が30年前くらいから開発されていて、実は家内はこの施術者の資格をとるため、震災後はずっと学費をはらってBTU(バランスセラピーUniv.)東京本校で勉強を続けているのです。具体的な施術はホメオストレッチと呼ばれ、荒れたコミュニケーションの回復にも驚異的な効力を発揮します。12月28日には東京本校の先生方に弊社へ来ていただき、全社員120名に体感してもらいました。また、年明け2月8日・9日には、東京本校の鈴木校長に来ていただき、課長以上役職者13名に一人1時間ずつ、ホメオストレッチをお願いしました

 などなど、いろいろ続いておりますが、そろそろ須賀川では被災者という言い方は終わりにできるかな。被曝者だけでも十分重いタイトルだから、一つ返上したいですね(笑)。

 1月19日、下記のとおり、出かけてまいりました。当初1時間くらい、と言われていたのに、終わってみたら2時間(笑)。須賀川市原子力災害対策直轄室のみなさま、お忙しいところ、ありがとうございました。以下は、終わった後、思い出して書いてみた、当日私が話しまくった(笑)内容です。

2012年1月19日(木)13:30-15:30 於須賀川市体育館2階会議室

須賀川市原子力災害対策直轄室 室次長
須賀川市原子力災害対策直轄室 主任
須賀川市商工労政課主幹兼課長補佐・商業振興係長

株式会社福島明工社 代表取締役社長 川村龍俊
株式会社福島明工社 総務部部長
株式会社福島明工社 金型部部長(福島明工社消防団副団長)
株式会社福島明工社 生産部生産技術課課長(福島明工社消防団団長)

 須賀川市は、2011年12月21日、橋本克也市長の記者会見で、以下の4点を発表し、文書をインターネット上で公開した。

Ⅰ 須賀川市震災復興計画について
Ⅱ 原子力災害対策直轄室の設置について
Ⅲ 学校給食用食材の放射性物質測定と基準値設定について
Ⅳ 米の放射性物質の緊急調査について

 Ⅰにおいて、復興都市像を「共有、共感、共生へ ともに築く復興都市すかがわ ~今こそ須賀川の力を.. 未来 そして こどもたちのために~」と位置付けた。

 Ⅲにおいて、市の「教育委員会 学校教育課」が、学校給食の放射性物質含有基準値を世界一厳しい「測定器の検出限界値」に定め、食材は二日前に測定し、基準値を上まわる食材は使用しないことにした。

 Ⅱにおいて、市の人事課が、市長直轄の原子力災害対策直轄室を設置することを決め、同室は各部課の上位にあって「指示」する立場にあることを組織図に書いた。

 上記の大きなテーマは「数年後に子どもが放射線由来でがん等を発症する可能性を限りなく小さくするため、子どもの内部被曝を避ける努力を惜しまない」ことである。

 学校給食用食材の検査は業者が行う。しかし、「教育委員会 学校教育課」の名において子どもに内部被曝をさせないためにこの検査を行うのであるならば、「教育委員会 学校教育課」は、それのみならず、あらゆる角度で、子どもに内部被曝をさせないように働きかけなければ論理矛盾がおきる。

 12月21日までに校長を含む教職員がどのような指示または独自の考えにたって被曝について語り、行動していようと、その日以降、全教職員は、子ども・PTA・地域等々、関係するすべての人々に「子どもに内部被曝をさせない」ことをうったえなければならない。

 当然、給食のみならず、家庭を含め子どもが口にするすべての飲食物は限りなくND(未検出)でなくてはならない。
 子どもが呼吸によって吸い込まないよう、校庭での運動、水泳等の中止・禁止。
 校内のみならず、通学路、家庭等の放射線量の測定。
 線量の高い場所の調査。
 線量を限りなくNDにするための除染。
 上記すべてを教育し、守らせなくてはならない。

 その指示が「教育委員会 学校教育課」に出せるのは原子力災害対策直轄室である。

 つまり、子どもの未来を見据える須賀川市は、内部被曝も外部被曝もNDを目指すと世界に向けて発信したことになる。

 地産池消を奨励するために学校給食用食材を検査するのではなく、子どもが口にするすべての食材はNDであることを目指さなければならない。

 須賀川市産の農産物は、基本的にすべて検査し、その値を販売時に明記すべきである。

 NDやかなり低い田畑もあれば、かなり高い田畑もあるだろう。その両者に同様に配慮するのではなく、低い田畑のものはガンガン売り、高い田畑は補償を含めどのように線量を下げられるかを検討するべきである。

 市はブロックごとに除染を行うよう国から指示されているが、実際には、低レベル放射性廃棄物となる、取り除いた土の一時保管場所が決められず、ほとんど行われていない。この解決方法は住民のコンセンサスをとることではなく、それではいつまで経ってもきまらないので、市の土地を充てるべきである。

 遊休地が市にないのは当然なので、一時保管場所として公園をつぶすことを提案する。もちろん穴を掘って埋め、公園としては使用禁止とし、子どもの立ち入りも禁止すべきである。後で取り出して、いつかできるはずの最終処分場へ移動できるように、埋める際には容器に入れるべきである。

 具体的には、先に容器をブロック単位で配付し、そこに入れて、約束した日までは人の立ち入らない場所へ置いておき、その日に市が回収して、公園等の市の土地へ移送し、埋設すればよい。

 子どもの未来を見据える行動のすべては、当然大人の健康も守る。命や健康に関わる事態である以上、金は使うもので、今は借りてでも使うべきである。

以上

 やはり、市役所内の人事異動であるからには、みなさんのお気持ちは市民へのサービスというジェントルなところにありました。平時に於いては、それはとてもすばらしいことだと思います。ですが、今は緊急事態。近未来の子どもを守るためには、行政は、リーダーシップを発揮しなければなりません。

 がぜん、私の語気も態度も(笑)ヒートアップしまして、同席の弊社社員によれば、後半戦では聞いている方々の顔つきや目もとがキラキラしてきた、とか。本当だったらこんなに嬉しいことはないのですが。頼むよ、ほんと。

 2月2日、福島明工社の社長になって、満5年となりました。いえ、何かお祝いしてくださいと言いたいのではありませんからご心配なく(笑)。

 6年目になっても、まだまだ社長業は続きます。特に対放射能戦が始まってからは、会社の売上や利益は3番目。1番目は社員の健康、2番目は社員の生活と、緊急時モードに切り替えてこれまでやってきましたが、それでも、結果として、目標も昨対比もオーバーしております。おお、やはりちゃんとやればお金はついてくるなあ(笑)。

 2月7日、須賀川市は須賀川市除染計画《第1版》をネット上に公開しました。

 これを見ると、私がキーキー言ってきたことの、そうそう悪くないあたりにまとまっているので、ほっとしています。

 続けて2月10日、岩瀬商工会の新年研修会(飲み会)において、ついに震災後初めて市長と膝を交えて話す機会を持てました。懇親会に先立って、市長が35分スピーチをしたその内容は、8割が対放射能戦、それも子どもの未来を守ろう、という宣言だったので、我が意を得たりとにこにこしてしまいました(←単純)。

 スピーチの中で福島明工社の業務としての除染活動や私が資料を送った件についても触れてくださったので、飲み会ではいろんな社長さんが私のところへ話を聞きにきてくださいました(が、岩瀬地区の社長さんはほとんど60才以上の方々ばかりで、放射能に対する感覚が強烈に鈍く、興味は景気動向に限られていて、悪いお酒になりましたが)。

 市長と二人で酒を酌み交わしたときに、市長からは、私が送り続けた資料はお母様・奥様がきちんと目を通し、自分にもとても役に立ったこと、また、1月19日の須賀川市原子力災害対策直轄室訪問の件はきちんとその部署から市長に報告があり、とても感謝していると伝えられたこと、等を先に話してくださいました。

 二人して、子どもに内部被曝をさせないためにがんばろう的な盛り上がりを見せた結果、臨席の岩瀬支所長(2011年6月23日に私が文句を言った人達の一人)も「今になってみれば川村さんの言ったとおりになりました」と応援してくださるし、同席していた市議の方も自分にも資料を分けて欲しい、勉強したいから、と申し出てくださるし。

 まあ、とにかく、私の対放射能戦は、年が明けて、一段くらいは階段を上ったようです。

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2011年10月13日 (木)

放射能に台風ときたもんだ

 9月12日、6月に会社敷地内に植えたひまわり(あまりきれいには咲きませんでした)2,000本を根っこから引っこ抜いて、ついでに草も刈って、集めてみたら7マイクロシーベルト/時でした。ドラム缶7本に詰めて、業者を呼んで穴を掘って、コンクリート漬けにしました。

 9月16日、高圧洗浄機による除染開始。主に建物の屋根・壁、そしてアスファルト舗装部をねらっていますが、除染前の計測では雨樋や側溝の線量(距離1cm)はまだまだ高く、9マイクロシーベルト/毎時の箇所を発見。除染後には約半分に(それでも半分、ですが)落ちて4~5マイクロシーベルト/毎時になりました。だいたい、高圧洗浄機による除染の効果は、数値を半分にすると考えればいいのかな、と思っています。

20110923_1_boat256 9月21日夜、台風15号上陸。須賀川市内はあちこちで冠水、倒壊の恐れがあるため須賀川アリーナ(屋内競技場)に移転していた市役所の一部も机の上まで水に浸かり、庁用車11台がおじゃん。仮設住宅も床上浸水で全国に報道されるありさま。私が常宿にしている北へ15kmの郡山市のホテルまでは、冠水箇所が多すぎて、車でたどり着けたのが奇跡のようでした。

 一夜明けてみれば同じく郡山市在住の社員2名が住宅の一階部分がキッチンの上までやられ、うち1名は水が退かずにボートで救助されたとのニュース(この写真は9月23日の福島民報一面トップを飾ったもので、その社員一家が写っています!)。もう一日おいてから、高圧洗浄機と発電機を社員4名に持たせて、洗浄の手伝いにいってもらいました。高圧洗浄機の本来の使い方ができてうれしいというかなんというか(笑)。

 低線量内部被曝(食物・水や空気から摂取し体内に放射線物質を取り込んでしまう)の恐ろしさがだんだん活字レベルではまっとうに流通するようになってきました。難しい話はもちろん理解すべきですけれど、イメージとしてこういうことがおきると私は想像します。

 今小学校一年生の子が六年生になったとき、クラスに一人か二人、癌で入院する人が出る。夏休みをこえたらもう一人入院した。

 もう十分でしょう? どんな学校の怪談より怖いでしょう? この時の学校はおそらくパニックになります。すべての子どもは「次は自分かもしれない」と思ってしまいます。

 学校・地域・家族が一緒になって除染活動や被曝した食物から逃げる行動をできるだけやり続けて、それでも上記の怪談が発生する場合と、「大丈夫だから気にするな」と言われて特別に何もしないで怪談が発生するのと、どちらがいいでしょう? 私は、やるだけやった方が、ずっといいと思います。やらなかったら、きっと、先生や両親は「恨まれ憎まれ蔑まれ」ることになるでしょう。

 10月6日、須賀川市農協広報担当者と会いました。500万円を投じてドイツ製の線量測定器を注文していたのがやっと到着したとのこと。作業の実際は、1kgあたりのベクレルを測るのに400~500gの試料を用意し、フル回転でも一日に10検体の測定が限界だそうです。何十何百とある野菜や穀物を店頭販売形態で一籠ずつ測るなんていうのは夢物語。実際には農協に持ち込むときにサンプルを測るのが精いっぱいでしょう。すでによく知られていることですが、広い畑や田圃の全体が同じ濃度であることなどあるわけがなく、測らないよりまし、というレベルとしか言いようがありません。

 市でも3台、同様の機械を入手したらしいのですが、この測定速度では、まだまだ消費者重視でなく、生産者重視ということになるでしょう。せめて、政府のいう暫定基準値以下なら販売可能というような乱暴な売り方をせず、独自の基準、できれば1kgあたり20ベクレル以下をもって販売可として欲しい、測っていないものについては「測っていない」と表示して欲しい、高かったら乳幼児や小学生には食べさせてはいけないとことわって欲しい、と強くお願いしました。担当者自身は私の話を理解してくださったと思いますが、実際にはどうなんでしょう?

 10月7日の弊社の高圧洗浄機による除染作業を、市長のご母堂とそのご友人計5名が見学していかれました。実際の作業をつぶさにご覧になり、大変興奮しておいででした(笑)。何とか市の方針が今後弱者保護の方向へ変更していく、そのきっかけになっていただくことを願います。

 10月10日、政府が1ミリシーベルト/年以上の地域を国費で除染する旨発表しました。須賀川市は、除染作業を市町村で行う地域に入りますから、たとえ未来にいくばくかの費用が国庫から戻ってくるにせよ、やっぱりまずは自腹ではじめなければいけません。その先陣を切った弊社としては、いくら高圧洗浄機を使用しても、ゼロにすることはできないし、自分の敷地がたとえきれいになっても時間が経てばまたまわりから押し寄せてくるし(笑)、要するに今後、定期的に、何度も何度も、おそらく「いつまでも」除染を続けていかなければなりません。

 業務で社内の除染ができても、社員の家は? その前に、会社のまわりは? 除染といってもその範囲は膨大すぎて、気が遠くなっていきます。せめて、一回やればそこはもう大丈夫、という作業ならやりがいも見いだせるのですが、やってもまた時間が経つと線量が高くなるのではイタチごっこです。雪が降る前に全敷地を一回はスクロールすべく、もう一台、高圧洗浄機を購入しました。

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2011年9月12日 (月)

罹災から半年経過

 放射能に対する温度差の話は、当地、福島県須賀川市にもあるんですよ。というか、あるのだ、ということを実感しました。7月8日、ある集まりに出席した際、須賀川市長のご母堂・須賀川市社会福祉協議会会長・須賀川市農協広報担当者・福島民報編集局文化部長を相手取り、食事会から深夜の二次会まで、オンステージで放射能とどう生きるかについて講演しまくってしまいました(笑)。みなさん、あきれていらっしゃったかもね。

 というのも、ここ須賀川でさえ、社会の上の方にいらっしゃる方々が、いかに放射能問題を勉強していないか、いえ、そういう話を聞かないでいられるように努力していらっしゃるかがよくわかってしまったからなのです。それに気づき、愕然としたために、やおらスイッチが入ってしまったのでしょう(笑)。なんのためにスナックに行ったのやら。でも、これがきっかけになって、国や県が経済優先で命じてきたことを、弱者の立場優先に少しでも視線を移してくださるのなら、いくらでも話すし歌いますよ。

 そうして、ここで目に見える景色のことを考えました。たぶん、被災から復旧するにあたって持っていた「現実の作業の中で感じていたリアルさ」が、一応の目処がついた後に、今度は対放射能戦に突入してしまったせいなのでしょう、「目に見える景色はまったく昨年と変わらないのに、実は毒だらけ」である非日常の中で、揺さぶられています。

 知識や想像力を駆使しない限り、この町、この田畑、あの山、あの森の「どこがいけないのか」は絶対にわからないのです。絵に描いた餅、という言葉どおり、この餅は食えない(食ってはいけない)のですからね。対放射能戦を戦いながら、五感がすべて使えないという事実に、この身体がまるで潜水艦や宇宙船のように計器航行をしているような妙な感覚に陥っていきそうです(その感覚は決して第六感ではありません!)。もっとも、もし五感に感じるような放射能量の場所であったら、早晩、死にますが。

 8月11日、社内のすべての復旧工事が終了。震災からちょうど5ヶ月かかりました。

 6月に線量が高い土を掘ってドラム缶に詰め、穴を掘って埋めて、コンクリートで固めましたが、その次の除染場所として、屋根や壁やアスファルト舗装の部分を考えていました。そこで、8月19日、高圧洗浄機のデモをお願いしましたが、その担当者が「昨日まで南相馬市にいました」と言うので、「もしや児玉龍彦先生とご一緒でしたか」と聞いたら大当たり! 盛り上がって2時間くらい話し込み、児玉先生流儀の建物の除染方法をたっぷり教えていただきました。

 8月29日、弊社でついに高圧洗浄機を導入しました。現役消防団員20数名で組織した弊社消防団メンバーを4人ずつのチームに分け、弊社平面図をブロック分けして、定期的に除染を繰り返していきます。以前に土をとった場所は、時間が経ってから計測すると、また高くなってくる傾向があるので、もう、業務の一環としてやり続けるしかないですね。

Happy 須賀川市の、除染活動の動きの鈍さにいらいらして、弊社では土をとって埋めたぞ、等々の情報や、田中優・小出裕章・広瀬隆・児玉龍彦各氏の講演画像をWEBから拾ってDVDに焼いたもの、またはっぴーあいらんど新聞などを、市長宅をはじめとして市の有力者である知人友人に送り続けてきましたが、ようやく少しその影響が出始めました。

 8月29日付けで、市が「須賀川市放射性物質除染方針」を発表したからです。これを読むと、結構私が送った資料が効いたかも、という気になります(笑)。弊社のある岩瀬地区を優先して除染する、ということですから、弊社が行ってきたことのノウハウや、高圧洗浄機の使い方(まだ市は購入していませんから)等、伝えていこうと思っています。

 私が市長宅等へ送り続けたDVDやWEBコピーや手紙の類は、まちがいなく彼らに「勉強してしまう」状態を作っているはずです。なので、県や党の指示が生産者でなく消費者・弱者寄りに切り替わったその時、市のリーダーたちは「何が問題だから何から手をつけてどこまで行けばよいか」を知っている人物として振る舞うことが可能になるでしょう。まあ、そのくらいの手助けだろうなあ。

 何十冊もの放射能関連の書籍や山のようなweb情報を読み続けてきましたが、これなら「ウチのどんな社員でも最後まで読める」本がやっと見つかりましたので、9月8日、「須賀川市放射性物質除染方針」のプリントといっしょに全社員120名に配りました。

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2011年6月30日 (木)

福島第一原発事故後の放射能とどう付き合うか

 6月23日、須賀川市役所岩瀬支所所長と、市健康福祉部こども課課長、同保育幼稚園係長の3名が来社しました。放射能除染のため、白江小学校及び、白江こども園の校庭表土剥離作業を行なうにあたり、弊社隣接の市の土地に作業後の土を埋めるので了承して欲しいとのことでした。

 もちろんOKですが、三点、文句を言いました(笑)。一点は、遅い! ということ。梅雨前にさっさとやらんかい(笑)。もう一点は、試験的にやってみたら放射線計測値が三分の一になったとおっしゃるので、そうじゃなくて、規定値以下になるまで削れよ!(笑)。最後の一点は、土を、穴を掘ってブルーシートを敷いてその上にかけて埋めるとおっしゃるので、いつか国からここへ低レベル放射性廃棄物を持ってきてくれと言われたとき、あるいは東電に費用請求を行うとき、きちんと現物を渡さなくてはならないのだから、容器に入れて、日付や放射線量を書いた紙も入れて埋めなきゃだめだ!(笑)

 24日、全社員123名を集め、ここ一ヶ月ばかりかけて読みに読んだ原発や放射能について、「福島第一原発事故後の放射能とどう付き合うか」と題し、70分間ノーマイクで講演しました。正しい知識を持ち、怖がらずしかし気を遣って、できるだけ身体を休めながら生きていかないといけないよ、という主旨です。

 その日に配った資料のうち、2点をお見せしましょう。

 その1:(結局見ずに大迫力でドカンとしゃべってしまいましたが)事前に作って配った梗概
http://tatsutoshi.my.coocan.jp/20110624.pdf

18june2001jgs その2:汚染地図
http://tatsutoshi.my.coocan.jp/20110618.jpg
※早川由紀夫 Yukio Hayakawa's Volcano Blog 「放射能地図(改訂版)2011/06/18(土) 18:00:49」 より

 2007年2月に社長になってから、平日単身赴任で須賀川市に住むようになって4年以上が経ちました。ジョン・ケージにならってマクロビオティックを2年ほど思いきりやっていた過去があることから、無農薬で化学調味料を使わない食事でないとイヤなので(笑)、赴任当初にそういう店を一所懸命探して、やっと見つけた「銀河のほとり」でずいぶんお世話になりました。ほどなく忙しくなって夜の食事を提供しなくなってしまってからはご無沙汰していましたが、「銀河のほとり」の有馬克子さんとは、マクロビオティックや芸術関連での共通の知人がいたりもして、ずっと連絡はとりあっていました。

 今や、「銀河のほとり」は、福島の子供達を救おうとする全国のNPOの基地になっています。被災後、私も何度かおじゃましましたし、家内もボランティアで炊事を手伝ったりしています。6月2日の郡山、9日の白河で私が聞いて大いに参考にした田中優氏の講演会も、そのNPOの力で行われました。

 須賀川には、そういう人たちが居ますし、全国から集まってきてもいます。JC(青年会議所)も、市役所も、子供達(と女性)を救うという大きなテーマを、経済活動より上位に掲げて、「連携して」行けないか、と考えますが、いかがでしょうか。もちろん、私に何かできることがあれば、喜んでお手伝いしていきます。

2011.09.12追記
 上記汚染地図の四訂版が2011年9月11日に発表されました。こちらをご利用ください。
 http://tatsutoshi.my.coocan.jp/20110912.jpg
 ※早川由紀夫 Yukio Hayakawa's Volcano Blog 「放射能汚染地図(四訂版)2011/09/11(日) 08:00:00」 より

2011.12.13追記
 上記汚染地図の五訂版が2011年12月9日に発表されました。こちらをご利用ください。
 http://tatsutoshi.my.coocan.jp/20111209.jpg
 ※早川由紀夫 Yukio Hayakawa's Volcano Blog 「放射能汚染地図(五訂版)2011/12/09(金) 08:53:13」 より

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2011年6月21日 (火)

罹災から3ヶ月

 4月1日には予定通り、昨年秋に内定を出していた高卒2名と大卒1名の入社式を挙行しました。融資の申し込みは更に増えて、現在5件です。

 4月5日、47歳になりました。なんともすさまじい誕生日だなあ、と思います。慣れというのも恐いもので、もはや、震災がなかったときに、どのような心持ちで暮らしていたのか、思い出すことができません。目先のこと、未来のこと、それらに向けた眼差しと態度は、いつのまにか人々を、自分のことばかり見ていることから解放し、人のために生きるよう動機づけているかのようです。

 ただ、さすがに、一ヶ月を超え、更に余震が続くと、ともすれば疲れから思考停止に陥り(この思考停止はエポケーではないですよ)、震度5くらいなら安全を確保する気にならないというところが困ったものです(笑)。実際、今や、福島明工社では、震度5弱では棚から物すら落ちません。

 神風が吹いているのか、須賀川市は原発から60kmの距離にあるのに、一応、飲み水の心配すらいらないくらい放射能問題が逸れてくれています。

 とりあえず設備的な復旧は終了しましたが、時間が経ってみると調子の悪い機械がいくつか出てきたので、それらの修理交換に700万円。上下水道の修復に400万円。地割れや建物の修復に500万円。建物が建っている土手の補強に1,400万円。どうやら3,000万円くらいの出費になりそうです。さて、補助金や保険でどこまで戻ってくるか(笑)。

 まあ、ほんとに事件はおきますよ。社員にも(やっぱり)いろいろ出てきました。

 ベテランのプレス工がはやる気持に負けて禁断の技を使ってしまい、左手を大けがで入院。プラスチック成形の課長が腹痛を我慢していたら実は腹膜炎でこれまた入院。生産技術の社員が対人障害の診断書を持ってきて2ヶ月休職。同じく生産技術の社員が急性胃腸炎で高熱を出して寝込んでしまい、とどめの一発が資材の社員の父親ですけど、未来を悲観して自殺してしまいました。

 須賀川市(人口8万人)が把握している損害状況は、市道被害494件、橋梁被害5件、通行止め48箇所、河川被害2件、マンホール被害558件、流水被害48件、雨水渠被害3件、ため池96件、水路244件、農道121箇所、農地238箇所。家屋被害は調査終了棟数13,658件(内訳は半壊951、大規模半壊280、全壊822、一部損壊11,605)。

 それでも、弊社の配線器具は被災地を含めめちゃくちゃ需要があって、4月からずっと夜9時まで残業でものづくりをしています。たぶん、これって、幸せなんですよね。

 残念ながら神風は長くは続かなかったようです。初期の水素爆発で北西へ流れた放射性物質は、3ヶ月を経て国道4号沿いに南下、郡山・須賀川・白河・那須・宇都宮、浅草をも舐めて静岡まで達しています。

 今や、政府発表の「安全」基準がいかに「経済重視」の「保身」から出たインチキだったかは少し勉強した日本国民には常識になりつつありますが、ともかく年間1ミリシーベルト以上の被爆の恐れがある場合には避難・除染が必要で、上記の地域は民間レベルの測定情報を見るだけでもはやその域に。更にホットスポットの存在が細かくわかってくる中では、大雑把なとらえ方ではとてもすまされない。もっと言えば、煮ても焼いても消えない放射性物質は、この先更に風向きによってどこへ溜りどこへ拡がるかわかったものではない。

 ともかく、在福島人としては、拡散を防止し、被爆量を最小化するために、集めて、とりあえず隠すことを行わねばならない。

 弊社も放射線測定器を購入しました。弊社のある岩瀬地区は須賀川市の中でもホットスポットにあたっていることが判明、42歳以上の義勇兵22名に装備を用意し、除染作戦を開始します。

 6月2日、郡山市で田中優氏の講演を聞きました。氏のパフォーマンスのあり方、イヤミも怒りも悲しみも臭わせずユーモアで未来に向けて「敵」と対峙する話術・発送術に感銘を受けました。9日、白河市の氏の講演にもう一度参加したので、ノートを完成させ、弊社除染部隊の出陣にあたってレクチャーをします。

 氏の述べた数々の話題の中でも、除染・避難はいつからはじめても効果がある、というトピックには驚きとともに感激しました。被爆量は足し算ですから、水素爆発から3ヶ月後に避難しようと1年後に避難しようと、直後に避難したのの半分くらいは十分に効果があることになるという、あの話です。

 避難は用心、と言い換えるしかないのが残念ですが、内部被爆を抑えるために、できるだけのことはしようと、また、それを政府の発表・県のお達しの内容に構わず、年間1ミリシーベルト以上は「危険」と、ただそれだけを(これは法令遵守でもありますし)きちんと守れるように、行動し、また社員やこの地の人々に知らせていくつもりです。その輪の中には私の一つ年上の市長ももちろん入っています(笑)。

 放射性物質を体内に取り込んでもそれを排出できる、あるいはそれに傷つけられた遺伝子を回復させられる「免疫」力を高めて、20年経ってもこうしてメールが書ける仲でいられるようにしなくちゃね。それにはいい気分で笑って生きるのが一番。

 さて、そう言っておきながら、6月4日(土)あたりから発熱、強烈な頭痛を伴ってぐんぐん上がり、ついに震災後初めて月・火と会社を休んで寝床でうなっておりました(笑)。なんでも風邪がはやっているとか? この時期になってこんな風邪をひくとは、やはり私も人の子だったか(笑)。まあ、原因は疲労以外のなにものでもありますまい。

 8日の午前3時、やたらにすっきりと目が覚め、どうやら風邪は通り過ぎていったらしく、気分良好で、あとは鼻声が徐々に元の美声に戻るのを待つだけでしょう(笑)。今日現在、社員曰く85%くらいの復旧率のようです(笑)。

 15日は株主総会でした。無事にすべて案どおりにいきまして、取締役にも再任され、直後の取締役会にてあらためて代表に推挙されましたので、あと2年は社長業が続きます。これでやっと2010年度が終了しました。いささかくたびれました。

2011611_6 いよいよ16日から除染作業開始です。まず、敷地内の平面図を用意し、地上50cmの高さで、建物のまわりを中心に何十箇所も放射線の測定を行います。次に高いところ(屋根や雨樋)に登って、そこの土や枯葉やゴミを真下に落とします。それから建物の壁に沿って、なにもかも削り、拾い、掬って、それらをドラム缶にいれて蓋をします。最後にドラム缶を、できるだけ深い穴を掘ってそこへ埋め、コンクリートを流し込んで終了、という手順です。ドラム缶は鉄ですが、コンクリートはアルカリ性なので、そうすれば錆びないというわけです。

 防護服に身を固めた18名で除染作業を行ってみたら、事前の測定では、ほとんどの箇所が1~2マイクロシーベルト毎時でしたが、雨樋から落ちた水が溜っているところではなんと40マイクロシーベルト毎時の部分を発見。驚きました。3時間の作業で、ドラム缶12本分の土や枯葉を集めました。そうしてどかしてみたら、1マイクロシーベルト毎時まで落ちました。確かに除染作業は効果があります。今後も継続して行います。

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2011年4月 4日 (月)

復旧宣言

 わが福島明工社が製造販売している配線器具は、被災地の復旧・復興に必要なインフラの一部であるとの思いから、弊社の社会貢献は、震災後の注文にすべてお応えすることであると、社員に繰り返し伝えてきました。 

 おかげさまで弊社は、生産に関するすべての機械設備のチェックと調整・修理が終了しましたので、3月29日をもってお客様に対し、生産ラインが復旧した旨をお伝えすることができました。

 30日は、朝4時に東京を出発、8時前に須賀川に到着。昼休みの終わった後に全社員を食堂に集めて、災害見舞金を手渡しました。そのとき、話したのは、災害にあった人が陥る精神状態についてです。

 最初は茫然、次に異常にハイになり、やがてまわりに文句を言い出し、最後は自信をなくし疑心暗鬼に陥る。これが、心の動きであり、どんな人も程度の差こそあれ、起きることなので、他の人がもし口うるさくなったりしても、それは今、この状態に差し掛かったんだ、と見なして、くれぐれも「こんなときにその人間の本性が出る」なんて個人攻撃をするなと伝えました。

 災害見舞金は若手社員には強烈にウケたみたいでよかったです。融資の申し込みは年配の社員からさっそく一件、ありました。もう、なんと言えばいいのか……。

 会社では30代の社員の生き生き度が強烈に際だっていて、これはもしかすると、生まれてからいい思いをしてこなかった世代が、ともすれば戦争でも起きればいいのにとまで厭世的になっていたところに、本当の天変地異が来て、生き甲斐を感じ始めているからなのかもしれない、というようなことを考えています。弊社の仕事そのものが彼らの生きる糧になってくれていることが嬉しい反面、今後その場を続けていくことに対する責任の重さも感じています。

 被災地でご苦労されている(私たちももちろんそうなんですが)方々、亡くなった方も大勢いるのに、何を言っているのかと叱られそうですが、この時代、この場所でまだ生きている、ということは、生きて何かをしろ、と天の誰かに言われていることなのかもしれないとも思うのです。

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2011年3月29日 (火)

罹災から復旧へ

 3月11日(金)午後の大地震、福島県須賀川市の会社から車で15分ほど離れた、須賀川インターそばの蕎麦屋で罹災しました。揺れが始まってからすぐ、店の外に出たのですが、目の前で家の屋根瓦が落ちていく有様を目にし、びっくり。揺れがおさまってから店の中に入ってみたら、ぐちゃぐちゃ。

 会社にとってかえしましたが、途中の道路は数ヶ所持ち上がっており、のろのろ運転。会社では機材が動いてしまい、断水状態。インターネット環境もだめ、電話も繋がらず、社員を一度中庭に集めて、怪我人がいないことを確認してから家に返し、社長室内で散乱した書類を片付けてから、車で町に出てみました。

 崩落した建物、散乱するガラス、でこぼこの道路。火事こそありませんでしたが惨憺たる有様で、東北自動車道も通行禁止になり、宿をさがしましたがどこも休業。覚悟を決めて、東京へ一般道で戻ることにしました。

 須賀川、白河と震度6強の地震に襲われたため、道路の状況が悪く、大渋滞というかのろのろ運転。すっかり日も暮れ、那須を越えるころには町が停電状態。そのまま小山市に入るまで、ずっと停電でした。こういってはなんですが、すばらしい星空が見えたのが唯一つの気休め。車の中ではずっとラジオをつけていて、刻一刻と拡がる被害状況に恐ろしさを感じつつ、結局夜が明けた頃に東京の北の果てにたどりつき、帰宅したのは午前8時頃。家内と再会を喜びあって、とりあえずコーヒーで一息つきました。14時間くらい運転していたことになります。

 12日(土)は一日寝ていて、13日(日)は父の家で対策を話し合い、14日(月)からは練馬区の本社に出社して、情報の収集に努めていました。

 福島の社員の中には家が半壊したものもおり、特に断水のため辛い状況のようです。工場の建物や敷地内での異常もいろいろわかってきました。

 しかし、わが福島明工社の社員の士気は高く、地震から一週間閉鎖していた工場に、その間、何人もが集結し、少しずつではありますが、復旧に向けて調査と準備を進行しておりました。22日からほとんどの社員が出勤し、ポリタンクに水を汲んで、製造を再開しております。

 私はその震災以降、ずっと東京本社でお客様に対応しながら、福島工場の復旧の指揮をとり、全国の社員向けメーリングリストや会社のホームページで復旧情報を更新したり、決算の準備をしたりしていました。

 そして、ついに 東北自動車道が開通しました。なので、25日の朝早く東京を出発し、銀行や役所をまわり、復旧工事の見積りをとって、給料日の全体集会をやって、一泊し、26日の午後に東京へ帰ってきました。

 実際に須賀川についてみたら、商店街が倒壊家屋撤去のために立ち入り禁止だったり、風評被害というか農作物の出荷停止で農家ががっくりきているとか(この地域の農作物は問題ないレベルなんですが)、ガソリンスタンドに向かって給油希望の車の列が2kmも3kmも並んでいるとか、まあ、いろいろでしたが、社員の士気は本当に高く、また明るかったのがとても嬉しかったです。

 津波とは関係ない土地でしたが、震度6強はさすがに会社の土地建物にも大きな爪痕を残していて、まずは下水道の再敷設と縦横に走る亀裂の穴埋めを業者を交えて指示し、崩れかけている土手の修復工事の見積りを発注するところから仕事が始まりました。

 山のようにお菓子を積んでいったのがバカ受けして、帰る頃にはいつもの空気に似た感じになったので、社長の仕事は安定を作ることだなあ、と自分で納得した次第です。30日からはまた、水・木・金と福島で過すことになります。

 28日の定時取締役会で、福島明工社全社員個人に宛てて、災害見舞金を現金で用意し、私が持っていくことが決まりました。他に、4月の定期昇給の決定、また、家屋に損害があり緊急にまとまったお金が欲しい社員に対しての会社としての貸し付けも。25日はお菓子をもってのサンタクロースでしたが、30日はお金をかついでの石川五右衛門です(笑)。

 被災者になってみての実感は、この2週間ばかりよくやってきたなあ、という感慨の他には、底なしの疲労感ばかりで(笑)、一昨日だったか、家内と、「地震の後、まだ一度も泣いてないなあ」と話したところでした。昨日、ゴッドハンドの異名を持つ南青山のカリスマ整体師に一ヶ月ぶりの予約でかかってきましたが、どこをどうしたらこんなにストレスがたまるんだ、といわれるくらい、身体ががちがちになっていて、ずいぶん苦労してました(笑)。

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